長野県は北部と南部で仲が悪い?林修先生が語る、長野県誕生の歴史。

長野県

「長野県は、北部と南部で仲が悪い。」
けさ放映されたテレビ番組では、長野県の北部にある長野市と、南部にある松本市が不仲な理由が紹介されていました。

そういえば松本市出身の私の友人も、長野市があまり好きではありません。
長野市民も同じように松本市を好まないのかどうかは分かりませんが、同番組によると、「長野市のことが好きではない松本市民」は確かにいらっしゃるようです。

番組に出演されていた東進ハイスクールの講師・林修先生によると、この長野県民の感情には歴史が関係しているようです。それは明治維新にまで遡ります。廃藩置県を始めとした都道府県の整備、そのいきさつが影響しているそうなんです。
林先生のご説明をまとめました。

(一部情報元:「グッド!モーニング」金曜言葉塾 2014年8月29日放映)

長野県が誕生したいきさつ

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1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、これを皮切りに、全国の都道府県が整備され始めました。その際、まず日本は3府302県に分けられました。当初は江戸時代の藩をそのまま県にしただけでしたが、その後は数を減らす方向で本格的に都道府県の整備が進みました。同年中には3府72県にまとめられ、1876年には3府35県に。現在の「1都1道2府43県」になったのは、1888年のことです。

さて、この都道府県が整備されたいきさつを踏まえて長野県の歴史を辿ってみると、1871年に現在の長野県は、長野県(北部)と筑摩県(南部)に分かれており、すぐに統合されることになりました。
しかしそんな中1876年(明治9年)に、筑摩県庁(松本市)が原因不明の火事で全焼。そのため統合案が変更され、筑摩県は一転して分割されることに。南部は飛騨として岐阜県に編入。残った北部は長野県に統合されました。
旧筑摩県民は、このことがきっかけでたいへん不愉快な思いをしたそうです。それ以来、松本に県庁を取り戻そうとか、長野県を再び2つに分けようといった意見が、旧筑摩県民から沸き起こりました。

ちなみに1948年(昭和23年)には、旧筑摩県民(分県派)に最大のチャンスが訪れました。今度はなんと長野県庁が一部焼失。この事件がきっかけで、長野県を2つに分割することが議会で本格的に話し合われるようになりました。本会議当日はたいへんな物々しさで、警官が150人も動員されたそうです。しかし結局「分県に関する意見書」決議は不成立。現在の長野県に至ります。

林修先生によると、このような過去のいきさつから、当時「分県派」が多かった松本市周辺の方々は長野市をあまり好まないのだそうです。

歴史って侮れませんね。多くの人が知らないかもしれない過去の歴史的な出来事が、私たちの感情に影響を与えているなんて。この長野県の例に限らず、見つけてみると意外と身の回りにたくさんあるのかもしれませんね。